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はんだ牛蒡ブログアーカイブ

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恐羅冠山の遭難事故

県境の恐羅漢山で遭難したパーティーが全員無事救助された。このたびもそうだが、実は山の遭難の多くは、「降りる方向を間違える」ことからおきている。

私もこれまで国内外の山に300近く登ってきたが、登山道のないところを進む「藪こぎ」を好んだ。ルートを選ぶのに難しいのは「下り」だ。想像して欲しい。山は上に行けば行くほど収束して山頂に到達するので、迷いようがない。しかし下りは、山頂から最初の10歩の踏み出しの方角を間違えると、下れば下るほど全く違う場所になってしまう。途中で気付いても、引き返して戻る体力があるかどうかの問題になる。

だから、「下り始めの初めの初め」だけは、大変気をつけねばならないのだ。山頂付近がネジレていて自然に向きが変わっていくこともあるし、私も何度か誤った方向に引きずられかけたことがある。しかし、その都度気付いて引き返して事なきを得てきた。

誤りに気付くために不可欠な道具がある。コンパス(方位磁石)だ。下り始めてしばらくは地図とコンパスを見て方角が間違ってないかを度々確認する。90度も違えば誰でも気付く。気付いたらすぐに登り返す。雪山なんて腰まで雪が深いこともザラだから、なるべく早めに気付かないと、登り返すだけで体力を失う。だからついそのまま下って、死へ突っ込んでいくことになる。

私は初心者を山へ初めて連れて行くとき、まずはコンパスとヘッドランプ(頭につける懐中電灯)を無理やり買わせてきた。これらはいわば「死なないための道具」だ。コンパスも持たずに、オシャレで機能的な登山靴や上着に身を固める不思議な登山者は実に多い。そんな指導は全くしていない恐るべき登山の指南書も多いので仕方がないのかも知れないが。

このたびの遭難はコンパスを持っていたので、途中で誤っていることに気付いたらしい。もっと早く気付けば良かった。繰り返し言うが、下り始めが肝心なのだ。

ちょっとしたことで、生と死の分かれ目になる。ギョウザと違って、決して「運」がいい悪いでは済まされない。

# by tanboya3 | 2008-02-06 06:51 | その他
最近テレビでやたらとギョウザを映すので、食べたくなって冷蔵ギョウザをつい買ってしまった。裏書のとおりに作ると美味くない。美味い焼き方を一言で言えば、初めに茹でて後で焼く。要するに逆なのだ。以前テレビの料理番組で知った。

毒入りギョウザのニュースを見ていて、あまりに騒ぎすぎでしらけてしまう。食べ物とは本来自己管理や自己判断が必要なもの。表示や価格などをみて、さらに「自分の勘で判断して」食べるかどうかを決めるものだ。毒が入っていたということはハズレだったのだ。このたびはお気の毒だったというしかないが、「他人が作ったものを食べる」ということは、そういうリスクを覚悟しなければならないのだ、本来は。

消費者は乱暴だ。人件費が安いからと企業に中国で作らせておいて、50円100円を競って安いからとそれを買い、いざ何かあると文句を言う。文句を言うのは悪いことではないが、もっと先に考えるべき事があるのではないか。高いところから他人や組織を批判するだけでいいのか。将来中国の人件費が上がったら、企業は「仕方なく」他の低所得国へ工場を移すだろう。そして何かあればまた消費者は文句をいう。

「こうすればああなる」という考え方は都市部に多い。「こうしてもああなるとは限らない」のがこの世の自然界だ。ある何かの不慮の事故で子供を失った親がコメントしていた。「人が1人死んだのに誰にも責任がないということがあっていいのか」。悲しみの行き場がないのは分かるが、そのようなこともあるだろう。誰かに責任があるとは限らない。それを事故といい、それは自然界に仕方なくあるものだ。都市も文明も所詮はその一部に過ぎまい。

ギョウザが早く食べたい。裏表示にあるこのギョウザを製造した会社がどんな会社かを私は知らない。せめてブログでもあればマシな判断が出来るかもしれないが(笑)。それでも私は買った。自分で一から作るのは面倒臭いし、女房だって面倒臭いからだ。何があろうとこれは私の判断だ。
# by tanboya3 | 2008-02-05 06:50 | 主張・提言

初めてやること

有機ごぼうの出荷作業で、初めて取り組むパターンの段取りを加工スタッフと一緒に考えた。

このたびだけの形式になりそうだが、少ない在庫量をにらんでの作業のため、失敗があってはならないということで、ああだこうだと頭をひねる。やってみないとわからない、という部分がいくらかあるのでまだ不安も残るが、一応の結論は出した。あとは作業をしながら、いつでも軌道修正が出来るような準備をもって望むだけだ。

何事も“初めて”のことは難しい。「大丈夫かな」と不安になるものだ。しかし不安でたまらないことに限って案外成功し、「まあ大丈夫だろう」と安心すると変な失敗をしたりするものだ。物事には、ここぞ、という「とき」があるものだ。その「とき」の見極めが大事だ。

このような感覚は、「責任」を持つ立場になって初めて分かること。責任のないうちは「なんであんなに慌ててるのだろう」などと人事のように見えるものだし、ひどいときには「うちの上司は肝が小さいなあ。」なんて思うこともあるものだ。自分の経験だけどね。だからそうではなくて、そういう感覚をスタッフ全員で共有できれば、初めての物事もうまく回るものだ。

これは出荷現場での話しだが、生産現場では相手が生き物である以上、同じパターンはなく、毎日が「初めて」のことになる。「百姓は毎年が一年生」と言うように、常にそのような心がけが必要になるとうことが、また「生産農業」を難しくする要因になっている。
# by tanboya3 | 2008-01-21 06:48 | 経営(全般)

住まいを想う

立会いの検査をし、旧居を完全に引き払った。先々月から新居に越していたが、引越しをする暇がなかったため、家賃がもったいないと思いつつ仕方なくここまできてしまったのだ。

3年8ヶ月ここで暮らした。私の17箇所目の住まいの中で、6~15歳までの10年間住んだ改築前の実家(隣々の集落にある)に続き2番目に長い期間を過ごしたことになる。検査に来る市役所の職員を待つ間、あまりにキレイサッパリになってしまった部屋を見渡して少し感傷的になってしまった。

10年以上前、改築前の実家を取り壊すとき(うちの本業は建設業なので)私も解体に関わったが、大型機械でツマんでは壊すの繰り返しに、「涙が出そうだ」と言いながら機械を運転する親父を思い出した。親父が30歳のときに立てた家だった。そこに住んだのがたったの10年に過ぎない私でさえ胸にグッとくるものがあったので、その気持ちが良く分かったものだ。

住まいには物語がある。自分の「生」を保障していた空間、それは確実に自分の様々な営みの記憶と共にある。今の農業を始めてずっとここに暮らした。ここから田畑へ向かい、事務所はここに構え、ここで悩み、ここで悔やみ、ここで休息し、ここで力を蓄えた。前の女房はここを去った。

私はこれまで転居を繰り返してきたが、そのたびに住まいの全景写真を撮ってきて保管をしておいた。しかしあるときから撮らなくなり、それまでの写真を抹殺した。過去を振り返るのではなく前を見ようという衝動に駆られた行為だったが、それは少しやりすぎだったかも知れない。私の転居はその常々で前向きなものであった、ならば写真を残しておくことはそれほど悪いことではなかったろう。

しかし、今さら撮り始める気にもなれない。引越しは願わくばあと1回、終(つい)の棲家を建てて、そこで終わりにしたいから。

・・・立つ鳥跡を濁さず、掃除の仕上げは感謝の心で。今までありがとう。
# by tanboya3 | 2008-01-07 07:52 | 思い出

赤字で悩んでも

経営者は鉄の仮面をかぶれ、なんていうけど、これは未熟な私には難しいことだ。

参ることが多いと、どうしても顔に出てしまう。顔に出ると人に伝わり、あらゆる事が悪いほうに回っていくものだ。正直言って泣き言の一つも言いたくなる事情をたくさん抱えている。忙しく絶対的に時間が足りない。農作業現場の段取りが押しているのに、現場に出ている時間すらない。

赤字の会社ほど惨めなものはない。何事も考えがミミッチくなりがちだ。だからこそ大胆に取り組まなければならないが、その余裕がない。

当面ほど金を儲ければいいというわけにはいかない。永続的に経営が成り立つ農業をしなければ意味が無い。ある程度割り切れば楽になれるのだろうが、そこには信用や信頼や理想というものが介在する。他人を蹴飛ばしてまで生きていく気にはなれない。

昨日も書いたが、地球や自然の蓄えをあっという間に使い果たしている今の世だ。いわゆる「成功した」人や「金のある」人ほど子孫にツケをまわしていると考えられなくもない。その時代を生きて一体何を悩む。自分の悩みなど小さいことだ。みんなそのうち死んでしまうのだ。30年先50年先を見越した取り組みと公言するからには、もっと悟らねばならない。
# by tanboya3 | 2007-12-19 07:50 | 経営(全般)

およそ月1回更新。日々のブログは、http://handa-shizensaibai.com          


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