洪水と共に歩む

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保育所で草むら農法

過去最大級の経営危機(笑)への突入も秒読み。サッカーのロスタイムのような感覚。今の「今まで通りの日常」の終わりを告げるホイッスルがいつ鳴るか。
 
そんな時だが、私としてはただ粛々と経営や用事をこなすしかない。思わぬアクシデントに遭ったりお叱りを受けたりと、気持ちが滅入る瞬間も少なくないが、どうせ完璧には振る舞えないのだ、反省するだけ反省しておいて、悩む暇なく、ひたすら目の間の物事に全力を尽くすのみ。
 
その中をぬって、昨日は保育所で一仕事。私が普及を願っていて、ちょうど先月の講演の際にも紹介した「草むら農法」(→の実践だ。これはすでに春先に保育所と打ち合わせていたことで、同じく先月の保護者会による奉仕作業でも、訳を言って法面の一角を草刈りをせずに放置しておいてもらったのだ。雨の前がいいので、昨日の夕方はこの一手。連絡をして行ったので年長組の子らが待っていた。
 
しょうもないことでも「わ~」「すご~い」の連発で、こいつら幸せだなって。草むらのあちこちにいろんな野菜ができて、それを探して摘み取って、そんな記憶が彼らの奥底に宿ってくれたら、などと思うとニンマリしてしまう。まずはそこそこ育つことを祈るのみ。そして費用対効果が実に優れているということを知ってもらいたい。でないと保育所としてリピートできないだろうから。

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# by tanboya3 | 2017-09-27 12:10 | 地域づくり

緑肥播種で撃沈

およそ3ha、直前耕うんまで終わらせて、明日の本降りの前に少しでも緑肥を蒔く!と朝から意気込んでみたが、あえなく撃沈・・。うまく蒔けないのだ。
 
これは以前の写真。
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今回の緑肥はすべて自家採りもの。自家採りものは、ゴミが混じっていたりノゲがついていたりするので、まずは思ったようには播種機で蒔けないもの。そこを工夫して蒔くことになる。今まで使っていた品種があまりに蒔きにくかったので、今回は一見して蒔きやすそうな形状の品種に変えてみたのだが、いざやってみると意表をつかれた、今までのより蒔きにくいではないか。
 
う~ん、違和感ばりばり。なあに、ジッと調整すれば何とかなるさ、と辛抱モードに入るが、4時間して諦めた。「あーもうやめたやめた、諦めた~」って。
 
やめたというのは、今日はやめたということ。仕切り直していい方法を考えたい。っくっそ~とか何とかブツブツ言いながら自宅に戻り、昼飯前のシャワーを浴びていたら閃いて腰が抜けそうになった。昨日掃除を終らせたお米の調整ラインにかければ良かったのだ!!
 
もちろん、過去形。掃除はすべて済ませてしまった。すべての農作業の中で一番過酷で嫌いなラインの掃除を前提に、いまさら再びラインに通す気力は出ない。
 
まあいい、来年からはそうするのだ。ということで今年を何とか凌ぐべし。そして早く品種と管理をある程度固定したい。痺れながらも、必ずやるのだ。

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# by tanboya3 | 2017-09-26 12:09 | 作業・技術(その他)
前回紹介した番組の中でもそうだが、私は自然栽培のことを端的に説明するときには、「化学肥料はもちろんだが有機肥料さえも使わない栽培」だと言うようにしている。しかしそれではただの「無肥料栽培」だ。正確に言うならもちろんそうではない。では、さあどうか、あくまで短く言うとしたら「有機肥料さえ使わなくてもしっかり育つ栽培」というところか。
 
有機肥料さえ使わない、というのは自然栽培の基本技術の一つであって、それですべてはもちろん、ない。考えてみて欲しい。肥料を一切やらずに、ちょっと極端に言って、瀕死の状態でかろうじて収穫までこぎつけた野菜というのは、それはどうなのだろうか。私はあまり価値がない気がする。だったら少しくらいは肥料を使って元気よく育ったものの方が明らかに生命力が高そうだ。
 
途中だが、ちょっと子供が愚図りだした。お終い。

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# by tanboya3 | 2017-09-25 12:04 | 主張・提言・考え事

まずは田んぼの目標達成

稲刈り終了!畑作メインの経営のため、気分的にすでに稲刈りがイベントにはなりにくいのだけど、まあ一つ区切りが着いたということではホッとしている。
 
今年から7割を新規圃場に変えて臨んでいるが、稲の生育は二の次で、とにもかくにも地中のグライ層を改善することに特化して管理をしていることは度々書いてきた。(たぶん。)その1歩として、乾いた状態で稲刈りを終えるという目標がこの度あったのだが、終わってこんな感じ。
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どうもこのカメラはぼやけていかん。スマホに変えるか。
 
話を戻して、ここは枕地が私の経験上最悪レベルのずぶずぶ状態だったところだが、こんなにきれいな状態だ。集落の人にも「よくこんなにきれいにやれたな」と。全体的には亀裂もかなり残っている。これで冬を迎えて、冬はどうせ山陰の冬だ、乾くことなどないのだが、3月から4月の春の陽気を迎えてすっかり乾いた時に、穴を掘ってみてどうなっているのか、ということを楽しみにしている。
 
収量は、めちゃめちゃな管理の割にはそこそこあったと見るべきか。不陸直しで大きく削ったところはいつものように不作だが、なんとどっかり盛ったところも不作。あれだけガス湧きしてたらしかたがないだろう。新規圃場の潜在地力を見せつけてくれるような箇所もあちこちにあるから、早く不陸をそこそこ直して、一つのバロメーターとして収量を追及してみたい。
 
ああ、それは自然栽培稲についての話だ。有機稲の方は収量勝負なんてしない。有機で収量勝負するから有機がバカにされるんだから。分からない人もいるかな。

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# by tanboya3 | 2017-09-21 12:08 | 作業・技術(水稲)

今年も小3の野外授業


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毎年恒例の小3野外授業受け入れ。今年は昨年と同じ高角小。担任の先生が気に入ってくれたそうな。嬉しい限りだ。
 
毎年やっていながら、息子が今小3になって、ようやくどの程度の言葉を使って説明していいかが分かった気がする。しかし実践はというと、簡単ではない。何かと反省したところ。
 
こんなところにも、やるからには力を入れたい。もちろん準備にそうそう時間は割けないので、本番には、ということになるが。今日は終わって、意外とぐったり。塾時代は遠くなりにけり。このくらいは朝飯前だったが。


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# by tanboya3 | 2017-09-20 12:06 | その他

子供とどう接するか

運よく天気が間に合って、1日遅れの小学校の運動会が無事に校庭で行われた。仕事や集落自治会の用事をこなしながら出入りしつつも、80m競争、綱引き、リレーは見届けることができたし、PTA種目と親子競技にも参加できた。こんな年は珍しい。晴れているんだけど、めちゃくちゃ作業が押しているんだけど、田んぼも畑も軟んでいて入れないという奇跡的な条件のおかげである。
 
息子がいつの間にか走るのが早くなっているというのもそうだが、最後のリレーで上級生が真剣さの中でスタート地点をそれぞれ工夫しているのを見て、涙ぐんでしまった(笑)。そして自分の子供との距離について少し思いを巡らせたことだ。
 
子供のため、という態度をあまり前に出したくない。子供は大人の背中を見て育つのが本筋であって、まずは自分がしっかりすることが第一。しかし子供をすっかり無視してしまって大人の都合ばかり、というのではいけないのではないか。だからその塩梅があるのだろう、と日頃から考えているが、これがなかなか難しい。きっと悩んでいるうちに子供らはみんな大きくなってしまうのだろうと思われる。
 
しかし今日一つ分かったというか、分った気になったことが、今の我々の生き方や仕事で常に高みを目指すということは、自分たちのためであるということに加えて次世代のためでもある、ということ。自然の奥深さに感服している今の私としては、「世の中に訴えたいことがある」などと偉そうなことを普段から言っているが、全力でやるだけやったところで、どうせ訴えたいことの全ぼうも見えなければ、見えた範囲を広く伝え訴えることもロクにできないに違いない。ではそれを次世代に・・・息子が後をやらねば他人でよい・・・引き継いでもらおうというときに、それなりの魅力あるレベルにまで少しでも引き上げておく必要がありはしないか。問題が解明しつくされてしまって、すっかり課題がなくなってしまった住みよい世の中なんか、何の楽しみもやりがいもないということを信じて疑わず、現代の進歩に一時期不満たらたらだった私だが、いくら我々が頑張ったところで課題のない社会なんて絶対にできっこないと、今では自信を持って断言できる。それだけ自然は奥が深く、緻密で、保守的である。
 
30年、50年先に私が耕作する圃場がなおもって耕作し続けられているという前提がああるからこそ今目の前の圃場の管理方針が立つ、のだということをずっと言い続けているが、圃場に対して抱く思いに付け加えて、将来そこを管理する人にも思いを巡らせるのが良いと、今日はそんなことを思いながら子供たちを見ていた。
 
同時に死ぬときは堂々と死のう、死は怖くない、とも。親父のおかげだ、反田のおかげだと、子らが思い、1人でも2人でも思ってくれたら、それで良くて、そんな人生を送りたいとも。たかが運動会でこんな気づきに出会える今の人生が何ともありがたくて仕方がない。

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# by tanboya3 | 2017-09-18 12:03 | 生き方

長男と2人旅で東京へ

今日の夕方から、義兄の結婚式のため長男を連れて東京へ行ってくる。明日の夜には帰るのでわずかに1日ばかりではあるが、この大自然の当地とは大きく違った、不思議な世界が現実にあるということを見せてやれる楽しみで一杯である。
 
行きの夜行列車も、帰りの飛行機も、東京の雑踏も何もかも彼にとってはまったく未体験なのことである。文明というか、行き過ぎて気狂いの沙汰というか、是非はともかくとしてすべては現実である。そしてうちのゴボウが遠く離れたこの大都会で喜んで食べられているというのも現実だし、さらに求められているのも現実。そういうことをさり気なく語ってみて、まだ無垢な8歳の心は何を感じるのか、ということが私としては興味深々だ。
 
それにしてもちょうど2年前に日帰りした以来の東京だが、このたびも、たくさんのお世話になった、またはお世話になっている方々に対し失礼をするしかない。どうやら子育てが一段落するまでは不本意ながらも不義理を重ねるしかなさそうだ。それが許されようと許されまいと、私にはどうすることもできなくて、ただただ今の農業人生を送っていくしかないのだが、同時にそれは子らへ対する恨み節ということにはどうやらなりそうにない。それだけ今の私は恵まれているし、周囲の方々の理解がある。
 
しかし何より一番は田津の農地が美味いゴボウを育んでくれるからに他ならなくて、ここで育つゴボウが、私らの日常生活を振り回し繁忙をもたらしているという事実とともに、一方で生活全体に「ある種の精神的余裕」を生み出してくれていることを認めないわけにはいかない。こういう人生に感謝しつつ、子育てが一区切りした暁には、これまでの失礼を詫びる行脚を・・ご年配の方々に対しては祈るばかりで悔しくてならないが・・暇を突いて必ずやしていきたいと思っている。

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# by tanboya3 | 2017-09-15 12:02 | 家族

減草対策の仕切り直し

ついに3日に1度の更新になってしまっている。何故か最近、時間が取れない。
 
いやはや農業人生とは、単調でありながらも様々なことがあるものだ。この1週間にも実にたくさんの出来事や一喜一憂があった。そんな刺激の中を、顔だけは前というか少し下に向けて農作業を進めるという日々。人間の都合で何が起きようとも、自然(田畑)の流れだけには常に身を合わせて行かねばならないという私の人生の定めなのだ。
 
ショックネタを一つ。あれだけ頑張って準備しためくらマルチだったが、一昨日の大雨に叩かれて状態がどうも気になる、縮小して3分の1だけ実施することにした。それは今日完成させたが、残りはまるで何事もなかったかのように、来月また耕うんから始めるつもりだ。ここに投じた機械の損料、燃料など、すべて無駄になったわけだが、何よりもこれまでに投入した18時間が無駄になった。これだけの時間があれば緑肥の種が全部蒔けたのに。
 
就農以来、この手の無駄はもう思い出しきれないほど無数にやったが、この度はこの大きさは久しぶりなので、だからショックを受けたのかと一度は思ってみた。しかしどうも違う。つい最近にも壊滅した春まきゴボウの草取りをほぼ無駄にしたわけで、同質のショックならこの度が特別のものとは言えない気がするのだ。
 
で中1日明けて、今日気持ちが落ち着いて考えるに、どうやら今後はこの方法はあまり使えそうにないぞ、過酷な草取りマラソンの負担を軽減するための今のところ唯一の対症解決的手法になるんだけど、それがどうも当てにならないぞ、ということと関係が深い。天気の運不運があるわけで、生活をかけてやっている我々は、そんなのんきな博打を打ってはいられない。もう来年以降は、リスクを考えると突っ込めないだろういう気がしている。
 
気がしている、と曖昧な言い方をするのも、確信がないからだ。この度のことで何を学んだかといえば、シンプルでない手法はリスクが高い、ということに強いて言えばなるのだと思っているが、これを今後にどう活かせばいいかが分からない、という相当にモヤモヤした気持ちを抱かざるを得ないからショックなのだと、今は確信している。
 
となるとこのショックから立ち直るためには、これに代わる草取りマラソン労力軽減の手法・・もうこれまでにずいぶんと考え抜いてきて答えが見えない命題・・を見出するしかない。これがまた当然のことながら難題で憂鬱なのである。
 
何はともあれ、草の多い圃場12棟分のめくらマルチを諦めたのだ。女房の参戦が当てにできないこの冬のマラソンといかに対峙するか。まさに背水の陣での考察になる。

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# by tanboya3 | 2017-09-14 12:00 | 作業・技術(ゴボウ)
物心ついたころから、変わりたい、高めたい、と願って生きてきたつもりだが、この歳になった今でも、それは相変わらずであるかもしれない。
 
この夏は2つの事例に触れ、衝撃を受けた。1つは終戦時の引き上げ体験。もう1つが・・これが強烈なのだが・・お坊さんの修行体験(→)。こちらはつい一昨日ラジオで当の和尚さんから聴いたばかりで、かなり著名な方らしい。すぐにいろいろ調べていまだ興奮冷めやらず、自分の中で消化し切れていないのだが、明らかに私の生き方の足しになったとかそんなレベルでは収まらず、今までの自分のモヤモヤや中途半端な自己満足を払拭してくれて、まるで今後の私の人生を変えてくれるんじゃないかという期待というか、むしろ恐怖に近いような感覚である。もちろんその様になるかどうかはこれからの私次第なわけだが、まずは上手く消化して、どこかに着地らしきことをしなければ、心も体も収まりがつかない。
 
とりあえず気持ちを取り直して、今感じ入っていることを改めて言葉にするなら、人間は向上心さえ持っていれば、誰でも変われるし、どこまでも可能性があるし、幸福感を得られるということ。向上心というと白々しく感じられかねない時代なので言い換えれば、好奇心というか「きっとこの先に何かがあって、自分は変われる」という、極めて修業的な「前向き感」である。現代人は、まずはこれを持っているだけで良くて、あとは何がなくてもいいんじゃないか、と。
 
自分を客観視し、純粋にそんなことだけを意識し楽しんでみたい。最近の例え話として、先日の私の講演会に関して面白いことには、今回は少し過激にやり過ぎたかな、と心配していたのだが、参加したある人が「今回は過激さを封印したのか」と言われる。とりあえず「そうなんですよ~」などと答えておくが、私としては間違いなく今回は過激だと思っているので、「相変わらず過激だった」と思われないということは、やはり2度3度と聞くうちにこの人が変わったのだろうと、つまりこの人が私の主張を前向きに咀嚼しようとしてくれているのだろうと、嬉しく思っているわけである。
 
一方で私のほうも、今回は過激だったの一点張りで意地を張るのではなく、過激さを感じさせないスキルでもいつの間にか備わったかもしれない、などと考えてみると何やら愉快であるし、この人だって自分自身を差し置いて私などを論ずるよりも、自分自身が変わった(向上した)から受ける印象が変わったのかなと、まずは考えてみる方が楽しいのではないかと思う。いつの頃からか「自我」に振り回されて苦しそうな人や暑苦しい人が目に付くが、もっと客観的に傍観者的に自分を眺めていればいいのではないか。自己肯定感の必要性が叫ばれるとき、そのロジックがよく分からなくなることがあるが、必要な自己の肯定方法とは、このような、自己をあくまでも客観視して向上を認めることであろうと思う。
 
というような小難しいことを考える必要はない。何事があったところで、ただただ「きっとこの先に何かがあって、自分は変われる」と心に抱いているだけでいいのだ。こういう単純な人間にほど、愉快な人生が待っている気がする。と、今はこんなとりとめのないことを書いてみた。

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# by tanboya3 | 2017-09-07 11:59 | 生き方
前回弱気なことを書いたが、一方では、立て続けに褒められることがあって、大したネタではないのだが最近気分がいい。こんな歳になって、いくら見切ったつもりになっていても、人間だからそんなものではある。何かとくたびれている時分だから、ありがたく余韻に浸って活力にしたい。
 
世の中には様々な生き方や職種があるが、土に向き合うことで生計を立てている今の生き方というのは、私にとっては当たり前のことでも、ほとんどすべての人にとっては極めて珍しい生き方なのだということに、農道をぽつぽつ歩きながら気が付いた。農業者ですら、そのほとんどが土と向き合おうとしなくなった現代だ。私らのような人種は人口比でいうと0.0何パーセントということになるのかどうか。しかしこの珍しさは、新しさということではない。かつて多くいて、今では希少になったということに過ぎない。言うなれば我々は「生き残り」である。
 
生き残りの希少種は、感心のある人たちによってあちこちで「発見」される目にあう。きっと私はその1人であるに違いない。世の中の自分の立ち位置を、大きな立て看板地図の中の「現在地」表示に照らせば、今はまだ看板の隅の方にかろうじて赤丸が乗っかっているような不自然な地図であるに違いない。そしてこの赤丸は圏外に去るのか、それとも地図の中ほどに向かって移動していくのか。
 
その答えは、世の中の流れが決めることではあるだろうが、また同時に希少種である我々の地味な努力によっていくらか結果が変わるだろうということを認めざるを得ない。私が褒められて気分がいいこの数日とは、そういうことを実感する数日になっている。じゃあこの努力というのが、これも何か見えてきた気がしていて、強いて言うなら、あえて半歩しか進めようとしない行為と、おもてなし(笑)、というところか。つまりは地味に生きることに他ならないのだが、その中で、要するに「間合い」というものが大切だということを痛感している。
 
しかしこの間合いというやつは体で覚えるものであって、頭で覚えるものでは決してない。だから粛々と経験を積んでいかねばならない。そして、さあ今日からまたそんな日が始まるか、と思うと、日々はつまらなくても、人生は楽しい。とりあえず赤丸がどちらへ移動するかというこの上もない楽しみを抱いて、明日からさっそく辛くつまらない日々を過ごしてみる。

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# by tanboya3 | 2017-09-01 11:57 | 生き方

はんだ牛蒡ブログアーカイブ。月1回更新。日々のブログは、http://handa-shizensaibai.jp/          


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